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2006年05月23日

マリア・パヘス舞踏団 2006 「セビージャ」

  [Stage]

"Sevilla" Compan~i'a Mari'a Page's 2006
 2006年5月16日(火) Bunkamuraオーチャードホール 15列19番
maria2006.jpg

目眩がするほどの「ど・センター」に正直おののきながらも冷静沈着を装って着席するが、ここの椅子も随分ヘタって来たなぁ、というのが久々の印象であったりする。


ステージに向かって右手上方に掲げられた時計が19:08を表示しても、まだ客席電灯は点り、いくつかの空席さえも見える。
R1扉すぐ側の客席付近では、スペイン人と思しき10名ほどの外国人が、徐々に人数を増しながら相変わらず挨拶と立ち話を続けている。
それぞれに同伴者を連れた落ち着きのある紳士淑女の一団は、大使館関係者か何かであろうか、そういえばホールエントランスに黒塗りの高級車が乗り付けられていたことを思い出す。
兵庫で1夜・東京3夜の都合4公演。
芸能人の20人や30人はおろか、正真正銘のセレブリティーや、海を越えてやってくる好事家もいるかもしれない。
今宵の主役はマリア・パヘス。
誰が来たっておかしくはない、紛う事なきビッグ・ネームの新作、しかもワールド・プレミアである。


彼女のステージを観るのは、2004年5月22日 東京国際フォーラム ホールCでの"SONGS BEFORE A WAR"と"Flamenco Republic"以来。

入場してすぐに求めた公演プログラム(1500円)に目を通しながら薄ぼんやりと思ったのは、"La Tirana"で意表を突かれたマノロ・マリンのような"飛び道具"のない残念さ。また、その時のようなストーリー性や"Songs Before A War"のような強烈なメッセージがあるわけでは無いことへの、少なからぬとまどい。
それはつまりこれから始るステージに大きく期待しながらも、その一方で---傑作と言われた「アンダルシアの犬」の時のように---私程度には消化しきれないのではないかという不安。

混沌とした想いと、漠然とした孤独感。
しかしそれらはやがて微塵もなく吹き飛ばされる。

"Seville"の情景、叙情を、彼女の想いを通して描くステージは、そこに降り注ぐ陽光と乾いた大地の匂い、そしてしっとりと包み込む異国---彼女にとっては故郷---の夜を紡いでいた。


多くの来日公演には良くあること。しかもラテンの方々なのだから尚更気にすることはない。 遅い開演を訝かしむより、今のうちに心を空っぽにしておこうと、力を抜いて座り直す。

マリア・パヘスに惹かれるようになったのは、いつからだろうか・・・
輸入盤VHSの"Riverdance"に見た、あのマイケル・フラットレーを圧倒して呑み込まん程の鬼迫。
そして夢にまで見たRiverdance 初来日公演、東京ファースト・ランではまさかのマリア本人による"Firedance". 予想していなかった登場と実際に目の当たりにした彼女の姿に、私の腰の辺りから背中、そして後頭部を伝って「何か」が抜けていくような感覚をおぼえた。
その後、自身の舞踏団を率いての"La Tirana"、そしてまた"Riverdance Millennium "公演での来日。"アンダルシアの犬"、"Songs Before A War"、"フラメンコ・リパブリック"。
どの演目、どの瞬間をとっても、彼女の圧倒的な存在感に魅了され、叩きのめされ続けてきた私がいる。
 ---今夜は幾度目の逢瀬だろうか。

着席を促すカリヨンが、気の抜けたCavaのような音で鳴り渡った。

ほんの僅か、会場の温度が上がった気がして目を上げると、ふわりと辺りが暗く、しかし完全に落とされたのではない明るさの中を、ギター2人、パーカッション、カンテ2人、そしてチェロ(!)の、計6名が舞台上手に陣取る。
ギターの二人が客席に背を向ける形で席に着き、その肩越しにあの、アナ・ラモンが見える。
 <今夜のステージは"当たり"だ>
期待は予感へ、そして確信へと変貌する。
開宴のワルツに乗せられてするりと上がった緞帳の向こうに、ブエルタするマリア・パヘスがいた。


カンパニーの8名、それに小松原庸子スペイン舞踊団 [Biencenido! Ballet de Yoko Komatsubara] よりオーディションにより日本人が参加し、合わせて16名のダンサーが彼女を囲む。
マリア・パヘスの思い入れそのものから生まれた、しかも「Sevilla---セビージャ」という特別な名を冠した舞台に、日本人が参加する。
正直なところ奇異に思わなかったと言えば嘘になるが、実際の舞台では見劣りすることはなく、むしろ折角出てきたのだからもっと見せ場を与えて欲しい、と多くの人が思ったのではないだろうか。

大所帯である。
男女8名ずつの群舞はともすれば、個性の主張により全体の統一感を崩壊させる恐れがある。
まさにマリア・パヘスがそうであるように、フラメンコ・バイレは感情と個性とアルテの総合である。
統一感に拘り個性を殺してまで踊らねばならないのなら、それはフラメンコ・バイレの魅力を削ぐ危険性を孕む。
だが彼らの群舞は決して出過ぎず、しかし個性は忘れない。
時に掛け合い、時に統合して、ユーモアがあり、ウィットを忘れず、スペクタクルである。
ステージで見るフラメンコとて、やはりその芯にはコンパスが刻まれる。
アバニコのリズムも、ブラックライトで浮かび上がる靴も、どれもがフラメンコのアイレに包まれている。
マリア・ホセ・サンチェスとの共同作業の部分もあろうが、コレオグラファーとしてのマリア・パヘスも疑うことなく超一流である。

16人の個性を従えて、マリアが舞う。
ダイナミックなマントン捌き、途切れのない地鳴りのように響くサパテアード、<これが人の指先が奏でるリズムか???>と我が目 我が耳を疑う超絶的なパリージョが鈴を転がすように響く。

良く目・耳にする文句だが、彼女は確かに関節が柔らかく腕が長い。
だがマリアのブラッセオが美しいのは腕が長いから、ではない。
その(常人と比ぶれば確かに少々長い)ブラソを、どう動かせば美しく見えるのかと言うことを、彼女は知っている。
いやもちろん想像でしかないのだけれど、相当な努力の結果得たものだろう。
関節も柔軟であるだけではない。
腕をどのように回せば肩がどう動き、そして肩胛骨の隆起はどうなるのか、、、彼女はそれらを見極め、踊っているように思える。
柔らかなだけでは駄目だ。ただ柔らかなだけなら軟体動物の動きでよい。
縦横に舞う柔らかさを支えるために、しっかりと支える芯が必要である。
太い骨としなやかで持久力のある筋肉が無くてはバランスしない。

ともすれば欠点となる身体的特徴を自らの武器に変える。
セオリー通りである。が、凡人はそれを出来ずに他人を羨み、沈んでゆく。
いや、天才か努力の人か、そんな話ではない。
全ての総合がマリア・パヘスのバイレであり、それこそがマリア・パヘスなのだ。

自らの特徴を最大に生かし、時に優しく包み込み、時に鋭く突く。
彼女のブラッセオは羽ばたける翼であり、真実の瞬間を求める剣であり、挑みかかる角でもある。
囁く水のように軽やかに流れ、燃えたぎる炎のように揺らめく。
灼け射る陽光であり、降り注ぐ月光である。
そよぐ風であり、吹きすさぶ嵐である。

マリア・パヘスの個性に、呆れるほど嘆息する。

オレンジの木の下で華やぐ女達の、優しさ。別れ往く愛におびえる、弱さ。街角で踊り続ける、カルメン。
雨のアルカサル。マエストランサ闘牛場の驚愕。カテドラル、三角帽子のPenitente,,,,
やがてヒラルダの塔は、幾千の星に包まれマリアの意識とシンクロする。
マリア・パヘスのバイレに導かれ、時間と空間を超える。

ああ、何という光景であろう、何という女性であろう。
 "ヌエストラ・セニョーラ"・・・
貴女は、誰ですか?


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この数年来、マリア・パヘスのステージを見る度に「彼女を何と形容しよう」と考え続けて来た。
天才、革新家、超人、究極、至高、、、己の語彙の乏しさに愕然としながらもしかし、それは幼稚な言葉遊びだと気付いた。

彼女の素晴らしさをどう伝えたらよいか考えていたが、しかし言葉で彼女を表現することは、最早不可能ではないだろうか。
私如きのステージレビューなど、あってもなくても何も変わりはすまい。
讃えるに不足する。
言葉が何と空しいものか、思い知らされてしまった。


ご覧になった方には、言葉など無くともお分かりだろう。
観ておられない方には・・・スペインもセビージャもフラメンコもコンパスもマリア・パヘスも、予備知識など無くても良い。『機会があれば是非』としか、言いようがない。
どれ程のものかと問われるのなら、時間と懐具合に余裕があるならBIENAL[bienal-flamenco.org] に彼女の姿を追いたいと思う程に、と。
そうお答えしたい。

追記:2007/01/19
 このステージに関する芸術的な評は踊る阿呆を、観る阿呆。 『マリア・パヘス、走り続けるダンスの化身』にてお楽しみ下さい。
また同記事中からリンクされている社長のブログ [フラメンコ超暖色系] もお勧めです。

コメント (4)

 おお、私とほぼ同じ席だったんですね。正面っていいですよね~。
>予備知識など無くても良い。『機会があれば是非』としか、言いようがない。
 まったくおっしゃる通りですね。彼女のダンスはフラメンコだとか何だとか、そういうジャンルの枠を取っ払ってしまったところに価値があると思います。
 前回の作品で、ある種、行き着くところまで行っちゃった感がありましたが、原点回帰とでも言うのでしょうか、今回の作品はどこか吹っ切れたところがあったようにも思いました。ぜひ再演三演、息長く演じて欲しい作品だと思いました。
 それにしても、プログラムのインタビューで「いちばん苦労した点は?」の問いに、経済的な面を挙げていたのが印象に残っています。カンパニーの運営はさぞ大変なんでしょうねえ。そういう渡世の苦労もみんな作品内に昇華させているのもマリア・パヘスの凄いところでもあるんでしょうけど…。

いやホントに、、、書き忘れたことや書き漏らしちゃったことがまだ沢山あるのですわ。舞台装置(例のスクリーン)や衣装とか、とにかく素晴らしかったですよねえ。
思い出して整理しようとすると溜め息が出るばかりですが、何が一番凄いかって、あれだけ踊っておきながら、ひとり残って終演後のサイン会・・・ざっと見ても300人は下らなかったと思います。
疲れているでしょうに、また既に階下ではパーティーが始っていた?様子でしたのに、ひとりひとりに笑顔で応えてくれて・・・勿論私も貰いましたけれども。
そういうのを苦労と思わない方なのかも知れませんが、でも、やはり見えないところでも滅茶苦茶頑張って居るんだろうなって感じてしまいます。
一層好きなると言うか、惚れ直すというか。。。

 サイン会があったんですね! いいなぁ。私の観た日にもあったのかなぁ。帰りの電車が気になっていたもんだから、そそくさと出てしまったんですが、ううむ。

はい、上に張り込んだ写真がそれです。
定かではないですが、ほかの夜もあったと思いますよ。
あちこちのブログでサイン貰ったと書いている方いましたから・・あ、どの公演日か?までは見てなかったです。
前回のフォーラムの時は「この方のことだからきっと姿を現わす」と思い待っていたのですが(かくしてDVDにサインして頂きました)、今回はロビーに張り紙がありました。
「終演後にサイン会あります」って。
遅れていったので列の終わりの方でしたから、結構待ちましたかね・・・それでも30分くらいかな。
次回は是非、お時間の余裕見ておいて下さいまし。

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2006年05月23日 23:28に投稿されたエントリーのページです。

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