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2004年11月07日

最後の女神

  [miss M.]

みゆき嬢ももう30年なんですね。

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中島みゆき“お年玉”ライブTV初放送

 シンガー・ソングライターの中島みゆき(52)が米国・ロサンゼルスで行ったスタジオライブが、05年元日に「中島みゆきスペシャルライブ in L.A~奇跡の4日間ドキュメント~」としてCSの「TBSチャンネル」で独占放送されることになった(後9・00~)。中島は来年デビュー30年を迎えるが、ライブの模様がテレビ放送されるのは初めてのことだ。

自分でアルバム買い始めたのが'78年の「愛していると云ってくれ」だったかな。

それ以前のは姉貴が借りてきたのを聴かせて貰っていたから、その時期が1~2年として、私の中島みゆき歴も27~28年というところかしらん。
みゆき嬢自身は学生時代から本格的な音楽活動をしていたわけで、それまで数えると30年では済まないわけですが、まあ年齢的なこともありますので詳細は・・・(どこかのサイトに書いてあったなあ、ってことで割愛)

'79年の「親愛なる者へ」も結構"えぐられた"けれど、一番鮮烈だったのはやはり「生きていてもいいですか」('80年)。
買ってきた夜、真っ黒なジャケットを包むシュリンクラップの口だけ切って取り出したレコードを聴いて、訳もなくぐしゃぐしゃに泣いた。
私の中で、あれは不思議な事件だった。

中学の頃がフォークギター ---今で言う"アコギ"ですけど--- で、高校でバンド組んで(こん時はキーボードやったりしたな)、そのあと先輩に連れ出されてベース弾いたりもして、でもずーっとみゆき嬢は聴いていたっけ。
ただその後、ジャズにはまったり、また飽きたらずに民族音楽辺りに入れ込んでいた時期には、ちょっと離れてしまったな、丁度その時期はいわゆる「御乱心時代」(みゆき嬢弁)だった頃です。
音楽的に合わなかったと言うより、どちらかというと他に夢中だったから。。。
おかげで彼女の一番変化しておもしろい時期に、離れてしまっていたかも知れない。

けれど今はまた私にとって、中島みゆきという人は、大袈裟かも知れないけれど「唯一」の存在。
これまでにも、落ち込んだ夜に、彼女の歌に励まされたことが何度かある。
そしてもうすぐ1年になるけれど、とんでもなく酷い「うつ状態」の頃には、毎晩のように彼女の歌で泣いていた。

死にたい自分がいて、死に急ぐことが怖くて、死にたくなくて、死にたくなくて、死にたくなくて、、、死ぬのが怖くて、彼女の声が生きる手掛かりだった長い夜が、何ヶ月か続いた。
 (・・・またいつか、ぶり返したりするんだろうな、きっと)
色々とあって、本当にみゆき嬢の歌がなかったら、そのまま死んでしまっただろうな。
だから、彼女は自分にとって女神のような存在。

(他にもたまにこんな人がいるみたいだね)
口の悪い人は「信者」だとか揶揄して言うようだけれど、言いたい奴には言わせてやる。
何とでも言え。
何度が訪れた死を選ぶギリギリの時、本当に直前で正気に立ち直らせてくれたのは、みゆき嬢の歌だった。


ところでオフィシャル・サイトでじなみって、会費取っている割には情報量が少ないよなあ。。。
会員になっていても一般のニュースの方が情報が早いんだもの。
チケット確保用としか思えない。
まあ、そんな所でもあちこち見ていくとリンク先におもしろいモノがあったりして、【楽天市場】POPCON PLAZAなんてのがオープンしている!
"ポプコン"だとか"コッキーポップ"なんてのはもう、オヤジの踏み絵だな。
大体がATOKで変換しても正しく出ないんだもの、悲しいなあ。

。。。でもその全盛期、一番充実していた頃から現在まで、常にトップとは言えないかも知れないけれどいつもそこにいた。
フォーク、ニューミュージック、J-Popなどと、正体不明のカテゴリーなどお構いなしに、みゆき嬢は何かを歌い続けてきた。
彼女の歌う言葉には、今時の寄せ集めの、紛い物の詩とは違う何かがある。

いったん口にしたら元には戻らない。
言葉で人を斬ったらつける薬はない。

みゆき嬢の父上の言葉だそうな。
『癒やす薬となる言葉』を歌にのせて、彼女は傷ついた心たちに届けようとしているのかも知れない。

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2004年11月07日 22:18に投稿されたエントリーのページです。

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