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2009年02月18日

謎解き? 『今晩屋』 その四

  [miss M.]

と言うわけで、また前回に続いて中島みゆき嬢の"夜会VOL.15~夜物語~「元祖・今晩屋」"考察です。

書き始めてから仕上がるまで、もの凄く時間掛かってしまってます。
情け無い、、、仕事も忙しいですけど言い訳ですね。

DSC_0204a.jpg
 手ぶれ;; 今回のサインは色紙の表 !?でした

 ▽ 第1幕 後編 ▽

♪"11. らいしょらいしょ"
 両側の岩壁に子供の影が赤く映り、歌に合わせて鞠を付きます。
 「いちもんめのいすけさん」のフレーズの、どの地方でも聞かれる手鞠歌がやがて"らいしょ らいしょ"(来生 来生)と繋がり、独特の世界を醸し出します。
 姥竹の庵主が鞠つきをして禿の気を惹きます。やがて三者入り乱れてのバスケットボールに。
 この舞台は結構傾斜しているのですが、その舞台上で乱れることなく鞠つき~バスケットボールをこなします。かなりの運動量だと思いますが、大した物です。

♪"12. ちゃらちゃら"
 "ちゃら"なんて言葉で一曲作ってしまうところが、夜会の面白さでもありますね。
 「縁切りの寺は 身の上を ちゃらにしよ」と、逃げ出した禿に向けた歌です。
 庵主の台詞が「ここまで辿り着いて、この中には入れば"縁切り"となるものを」ですので、なぜか禿はこの寺の周りにいるだけで中に入ろうとはしない様子です。
 禿=安寿ですから、おそらく厨子王を待っているのではないかと想像できます。
 (鴎外の作中では)自ら命を絶った安寿ですが、迎えに来るといって去って行った厨子を待っているという事なのかも知れません。

 ちなみに、元になった説教節などでは、厨子王を逃がしたことで安寿は三郎から火責め水責めの拷問の末に息絶えます。とても残酷な段ですが、それ故に鴎外は安寿に早々と入水させ、苦しみを和らげてあげたのかも知れません。或いは言われている通り、男子の立身のために女子は自らを犠牲にするのが美徳である、という考えをそのまま当てはめただけなのかも知れません。
 私としては、出来れば前者であって欲しいと思いますけれど、多分後者が現実なのでしょうね。

♪"13. 憂き世ばなれ"
 「どうせ嘘なら 葦ひと夜 あとは野となれ 山となれ」
 和ちゃんこと杉本和代さんの高音が優しい曲ですが、もの悲しい内容でもあります。
 「葦ひと夜」は「悪し人よ」でもありますし、また「憂き世」となっていますが、当然「浮世」と掛かっていますね。つまり、禿もようやくここで縁切りをすることになります。

 庵主が紙風船をころがして禿の気を惹き、寺の中へと誘い入れます。
 寺の両脇から、一つ、二つ、と紙風船が転がりだし、やがて溢れるほどの紙風船が縁側を埋め、そして自らの意思を持っているかのように角を曲がり、中央の階段を落ちてゆきます。
 装置としては風を使っているのでしょうけれども、中々幻想的な演出です。しかも静かな曲(だったはず)の中で送風機の音などは聞こえてきません。見事でした。

(ここだったかな?)
 元・画家のホームレスが、半球に潰した紙風船を両手でささげ神妙な面持ちで発します。
 「木の椀(まり)に 清水を汲んで 汲み交わし」と。
 椀(まり)と毬(まり)が掛かってたのですね。

♪"14. 夜いらんかいね"
 これが「今晩屋」の主題になる曲だと思います。
 「もう一度あの夜をやり直せたなら」という願いを叶えるために、「夜 いらんかいね」と、優しく、妖しく問いかけます。ここでかの暦売りはただの狂言回しではなく、今晩屋の化身であると読み取れます。
 舞台のタイトルだけではなく、抽象的な意味でもなく、ストーリー中に今晩屋が存在することを示している歌です。

※暦売り
 さてここで前回後回しにした暦売りについてです。
 江戸時代になってからですが、暦の管理は幕府の天文方という役職の手による物となりますが、それ以前は暦といいますと土御門家の管理によるものでした。(天文方も土御門家が、、、などと書き出すと切りがないので省略します)土御門家といいますと、即ち阿倍氏(安倍氏)。遡れば古代豪族まで辿り着きます。
 近頃の有名どころでは、あの安倍晴明。
 高名な陰陽師で御座います。
 江戸期にもなりますと、この暦売りとは印刷した暦を問屋から買いまして市中に売り歩く「売り子」になったわけですが、以前は暦の小売りさえも土御門家のものでした。
 一説には、暦売りは下級陰陽師、あるいは駆け出しの陰陽師の仕事という話しもあります。
 従いましてこの暦売り、偶然この山寺で安寿と厨子の来生に出会ったのではなく、寧ろこの暦売りによって二人(若しくは竹を含めて三者)の出会いが仕組まれたのではないでしょうか。
 「除夜の鐘鳴る大晦日」に、わざわざ人の訪れぬ縁切り寺に荷を下ろし、売れぬ暦を広げて途方に暮れる、などという一見間の抜けた姿に欺かれてはいけませんね。

♪"15. 百九番目の除夜の鐘"
 今晩屋の問い掛けからまた何かが歪みます。
 元・ホームレスの画家は自分が何者かを思い出したのでしょうか。
 「都へ逃げよ 疾う逃げよ」

♪"16. 旅支度なされませ"
 「彼方へ行かれませ」と庵主が彼を旅の僧の姿へと着替えさせます。
 「急いでゆかれませ」と急き立てます。

♪"17. らいしょらいしょ"
 「前生から今生見れば 来生」
 空が赤く不吉な色に染まります。それを見た禿、突然不安で落ち着かない様子となり、隠れるように逃げ出します。
 直後のシーンを暗示した仕草と思いますが、何故この様子となるのか、謎のままです・・・などと言っては謎解きにはなりませんので何とか解釈を試みます。
 この物語が、説教節や浄瑠璃節などまで下敷きに含んでの作であるならば、赤く映る火は安寿を責め殺した拷問の火と考えられます。
 また、森鴎外の山椒大夫で留まるのなら、厨子王に掛かった追っ手の松明の火と見て、追わるる者の恐怖を示しているようにも見えます。

♪"18. 都の灯り"
 文さんこと宮下文一さんです。
 「裏切って 見限って 骨肉分けた者を捨て」
 禿の安寿が松明を持って、寺に火を放ちます。

 本物の火ですがさほど大きな炎ではありません。けれど、照明効果が秀逸で本物の松明の炎と照明に照らされた所の区別が付きづらく、一瞬、本当に舞台上で火の手が上がったのかと眩まされます。
 舞台照明のデザインで数多くの賞も受けた、小川幾雄さんの仕事です。

 二人の安寿が寺の戸を開け、燃えさかる中に厨子王を招き入れ都へと送り出しますと、寺は轟音と共に崩れ落ちます。その崩れ落ちてゆく様に合わせて、「都の灯り」に「らいしょ」が被って、壮絶な曲想となります。
 そして直後、二人の安寿はそれぞれに両側の滝壺へと身を投じます。
 「消火器」(!)を持った暦売りが駆け込んできますが時すでに遅く、呆然としながらも左右の滝壺から一つずつ、合わせて一足のわら靴を拾い上げ、胸に抱いて嘆きます。
 それから、その藁靴を焼け落ちた寺の縁側に、そっと揃えておいたところで、第1幕が終わり休憩となるのですが、この暦売りの悲しみ様は単に三人の命を失ったことなのか、それとも自らの力の不甲斐なさを嘆くのか、またはその両者、あるいはそれとはまた別の何かもあるのか。暦売りをどう解釈するかでこの部分も違ってきます。
 何れにせよ今生、即ち安寿と厨子から見た来生で出会うことの出来なかった姉弟は、次の生へと転生して行くということなのでしょう。
 なんとなく、「HALF」という曲を思い起こさせる展開でもあります。

☆裏切り
 ところで、特に「都の灯り」などで意味深く使われますが、しばし「裏切り」という言葉が使われておりまして、これが少なからず疑問でした、
 その答えについては「ぴあ」のインタビューにヒントがありました。

中島みゆき インタビュー/@ぴあ
それは例えば、どういう疑問だったのだろうか。
「一番最初にひっかかったのは、お母さんがなんであんなに簡単に騙されるんだろうということ。その次が、お姉さんと弟の気持ちですね。“待ってるから”と言って弟を逃がして水に飛び込んだお姉さんは美談で、弟はお姉さんを犠牲にして生き延びたということをずっと引きずるわけですね。弟にすれば“待ってる”と言うのは嘘であり裏切りでもあるんですよ。でも、それを裏切りと言ってしまっていいものなのかどうか。そういう歌もあります(笑)」

 ◇ 母の愚かさ
 △ 安寿の献身、そして嘘と裏切り
 ▽ 厨子の負い目、葛藤、無念?
こんな感じでしょうか。
 頃合いも良いので、つづき、といたします。

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2009年02月18日 00:37に投稿されたエントリーのページです。

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